彼女のスピーチは、すごく分かりやすかった。そして、社員への愛情がありありと表れていた。
このスピーチにはきっと、原稿がないのだろう。彼女の心の内をそのまま語っているように、わたしには感じられた。
やっぱりこの子――いや、この人はまだ若いけれど、大きな組織のトップに立つ器の人なのだ。
絢乃会長はわたしたち新入社員一人一人に、「自分の仕事の中でやり甲斐を見つけてほしい」「自分の仕事を好きになってほしい」とおっしゃって、適度な長さでスピーチを締めくくられた。
『――では最後に、山崎人事部長より新入社員への辞令を配付しますので、名前を呼ばれたら一人ずつ前に来て下さい』
司会の人がそう言うと、さっきまで絢乃会長がいらっしゃった演台のところに人事部長さんが――入社面接の時、わたしに自分の言葉で志望動機を話すようにおっしゃったあの面接官の人が立たれた。
「あの人……、面接の時の人だ」
人事部長さんは山崎修さんという名前らしく、五十代くらいの渋いおじさまという感じの人だ。見た目は厳しそうな人だけれど、実はすごく優しい人だとわたしはもう知っているので、怯えることもなかった。
『――矢神麻衣さん』
「はいっ!」
わたしは元気よく返事をして、壇上に上がった。辞令を受け取る時、人事部長さんはわたしの顔をじっと見つめ、笑顔で励まして下さった。
「君は、あの面接の時の人ですね。入社おめでとう! これからともに頑張っていきましょう!」
彼はわたしのことを憶えていて下さったらしい。わたしはすごく嬉しかった。
だってあの日、わたし以外に何十人、何百人もの就活生が面接に来ていたはずだもの。わたしなんか、その中の一人でしかなかったはずなのに……。
「はい! この会社に入社できたのは、部長さんのおかげです。ありがとうございます! 頑張ります!」
わたしは部長さんに深々とお辞儀をして、受け取った辞令の紙を大事に抱きしめるようにして自分の席に戻った。
入江くんはわたしより前に呼ばれていて、もう辞令を受け取ったはず。さて、彼はどこの部署に配属されたんだろう……? そういうわたし自身も、まだ辞令を見る勇気が出ずにいるけれど。
「――ねえ、矢神麻衣ちゃんだよね?」
「えっ? ……うん、そうだけど……」
わたしのすぐ隣に座っているちょっと気の強そうな女の子が、わたしに話しかけてきた。でも、わたしは早くも人見知りが発動してしまい、戸惑ってしまった。
ちなみに、入社式の座席は男女別になっているだけで、特に名前順に座らないといけない決まりはないらしい。
――宮坂くんは入江くんと違って、大学からの同級生だった。彼は入学した時から、わたしのことをロックオンしていたらしい。 もっと可愛い子なんて他にもいっぱいいたのに、どうしてわたしみたいな地味で目立たない子がよかったんだろう? それは今でも不思議に思っている。 ……と、ここまではよくある一目ぼれだったのかもしれないけれど、宮坂くんの異常さはここからだ。 わたしは二年生の頃に一度、彼から告白されたけれど、ずっとハッキリとは返事をしていなかった。それにも関わらず、彼はわたしの彼氏になったつもりでしつこくつきまとってきたのだ。そのうえ、わたしと付き合ってもいない入江くんを目の敵にするようになった。 それ以来、彼はことあるごとにわたしのスマホに電話攻撃や大量のメールやショートメッセージを送りつけてくるようになり、それを無視すれば「どうして返事をくれないんだ」「どうして電話に出てくれないんだ」と所かまわず構ってちゃんになる。「俺たち付き合ってるのに」と。 入江くんにはこのことで何度も相談に乗ってもらったし、彼から何度も宮坂くんに「やめろ」と注意してもらったけれど、恋敵だと思い込んでいる相手の忠告なんて素直に聞き入れてもらえるわけもなく、彼のつきまとい行為はずっと続いている。 そしてとうとう、会社にまで乗り込んできた。こうなったらもう、迷惑を通り越して恐怖でさえある。両親にもこのことはまだ話していないので、どう対処していいのか分からなくて困っているのだ。「……わたしも悪かったんだと思います。告白された時に、ハッキリ『あなたとは付き合えない』って断ればよかったのに。ずっと返事を曖昧にしてたからこんなことに――」「矢神さん、それは違うんじゃない? このテの男は、たとえ断ってもしつこくつきまとってくるよ。私もこれまで色~んな男を見てきたから分かるんだけどさ。だから、『自分も悪い』なんて思っちゃダメ。あなたは悪くないから。ねっ?」「…………はい。ありがとうございます」「って言ったところで、警察に頼っても何もしてくれなさそうだし。どうしたもんかなぁ?」「そうですよね……」 こういう時、頼れる相手が少ないというのは困りものだ。とりあえず入江くんには話すつもりだけれど、やっぱり最終的には会長の力を借りるしかないのかな? あまりご迷惑をかけたくはないのだけれど……。「
桐島主任は「分かった」というようにわたしに頷いて見せ、電話の保留を切った。「――お待たせしました。お客様には、『矢神は本日お休みを頂いています』と伝えて頂けますか? あと、『お約束のない来客はお取り次げない決まりになっております』と。……はい、よろしくお願いします」 主任がわたしの拒絶の意味を汲み取って下さってホッとした。受付の人をどうにか納得させてくれて、彼は受話器を戻した。「……主任、ありがとうございました。ご無理を言ったみたいですみません」「いやなに、部下を守ることも上司の大事な務めだからね。矢神さんの怯えようが何だか尋(じん)常(じょう)じゃなかったから、会わせない方がいいと判断したまでだよ」「……そうですか」 主任に助けてもらえたことは素直に喜ぶべきなんだろうけれど、巻き込んでしまったことが本当に申し訳ない。「宮坂って人、矢神さんが会いたくない相手なんだよね? 詳しい事情は訊かないけど、もし困ってるなら小川先輩に相談するといいよ。男の僕には言いづらいことも、女性同士なら話しやすいかもしれないしね。彼女は君の指導係だから頼って損はないと思うよ」「はい、ありがとうございます。そうします。……あの、主任。このこと、会長には……?」「君が報告してほしいって言うなら、僕からお伝え
――それから二日が経ち、また新しい週がスタートした。「うっす、矢神ー」「あ……おはよ、入江くん」 わたしはいつもどおりに出社し、いつもどおりに入江くんと朝の挨拶を交わす。でも、彼の顔を見ると何だか妙に意識してしまい、ちょっと気まずく感じてしまう。一昨日、彼のことが好きかもしれないと自覚したせいだろうか?「…………矢神、今日のお前、何か感じ違(ちが)くねえ? 何かあった?」「えっ!? べべべべ別に何もないよ!? 入江くんの気のせいじゃない?」「そうかあ?」「うん、そうそう!」 こちらだけが意識していて、彼の方はいつもと様子が変わらないので何だか調子が狂う……。確か入江くんの方も、わたしに気があるんじゃなかったっけ?「…………ふーん? ま、何もねえならいいけど。あ、そういやあれからアイツ、お前の前に現れた?」「アイツって……宮坂くん? ううん、わたしの周りには姿見せてないけど」 わたしが彼の連絡先をブロックしたので、わたしとコンタクトを取りたいなら直接会いに来るしかないはずだ。だからこそ、土曜日にもバーベキュー場に現れたわけだし。「もし会社に訊ねてきたりしたらどうしよう? 困るなあ、そんなことになったら」 この会社でわたしのストーカー被害のことを知っているのは、今のところ入江くんだけだ。佳菜ちゃんにも、秘書室の上司である桐島主任や広田室長にも、小川先輩にだってまだ話していない。もちろん、絢乃会長や重役のみなさんにも。 こんな個人的な問題で周りの人に迷惑をかけたくはないし、あまり多くの人を巻き込みたくないのだけれど……。「オレが助けてやれたらいちばんいいんだけどなぁ、部署違うからいつでもってわけにいかねえし。矢神、もしそうなった時は迷わずに周りの人に助け求めろよ。お前の命に関わるかもしれねえんだからな」「……分かった」 できれば自分の力だけでどうにか解決したいので不本意ではあるけれど、確かにいつも入江くんに頼れるわけではないので、わたしは彼のアドバイスを素直に聞き入れることにした。 * * * * ――ところがその日の午前の仕事中、わたしが恐れていた事態が起きてしまった。 事の発端は、受付からかかってきた一本の内線電話。「――はい、秘書室です。……えっ? 矢神さんに来客? その方のお名前は? 宮坂さん……ですか」 わたし
――バーベキュー親睦会には大勢の社員が参加して、すごく盛況だった。中には家族同伴で参加している人もいて(それもまた自由だったので)、もはや会社の行事というだけではなくなっていたけれど、それはそれで楽しめた。 わたしも美味しいお肉や海鮮、野菜を味わいながら、いろんな部署の人たちと交流を持った。人見知りのせいでうまく話せない時もあったけれど、そういう時には入江くんや佳菜ちゃんが間に入ってくれて、話題を繋いでくれたりわたしの言いたいことを代弁したりしてくれた。 ウチの会社は基本的に職場恋愛も推奨しているらしく(もちろん不倫はダメだけれど)、何組ものカップルを眺めては「羨ましいなぁ」と佳菜ちゃんと二人でうっとりしていた。そういえば、小川先輩の彼氏さんも同期の人だって言っていたけれど、わたしは今日初めて紹介してもらった。お名前は前(まえ)田(だ)優(ゆう)斗(と)さんで、営業部の人らしい。寡黙そうな人で、ちょっととっつきにくそうだけれど話してみたらすごく優しくていい人だと分かった。「私ね、去年まではちょっと不毛な恋をしてたの。でも、そんな私のことを前田くんはずっと想っててくれて。会長と桐島くんが背中を押してくれてね、まずは友だちから始めることにしたの。恋人になったのはつい最近かなー」「そうだったんですね……」 わたしは小川先輩と前田さんとのなれそめを聞いて、何だか感動した。そして深くは訊かなかったけれど、もしかしたら先輩が想いを寄せていた相手は既婚者だったのかもしれないなと思う。それが誰だったのかまでは分からないけれど。「――あ、入江! こんなところにいた。おっ、矢神さんも一緒か」 そこへやって来たのは、入江くんの指導係である久保さんだった。でも、何だか様子がおかしい。後ろをキョロキョロとしきりに振り返っている。「どうしたんすか、久保先輩? オレらに何か用でも?」「ああ、二人にちょっと聞いてほしい話があるんだけどさ。……なんかさっき、このバーベキュー場の方をじっと見てる怪しい男がいたらしいんだよ。歳は二人と同じくらいかな。背は百八十なくて、痩せてて、ちょっと目つきがおかしかったらしい」「…………! 入江くん、それって」「宮坂だ。間違いねえ」 わたしは入江くんの返事に青ざめた。でも、宮坂くんだったとして、どうしてわたしたちが今日ここにいるって分かった
「ところでお二人さん、飲み物と主食(メシ)は持ってきたか?」「もうバッチリさ! あたし、コンビニでウーロン茶とおにぎり買ってきた。鮭とツナマヨ」 佳菜ちゃんは張り切って入江くんの質問に答えたけれど、バーベキューに具入りのおにぎりって合うのかな? ちょっと重くない?「お前、胸焼けすんぞ。――矢神は?」「わたし、ゴハン持ってきてないや。麦茶は買ってきたけど。昨日の晩ゴハンで炊飯器の中空(から)っぽになっちゃって」 いつも必要な分だけしかお米を炊いていないので、今日持ってくる分のゴハンまでは計算に入れていなかった。さて、どうしたものか?「ああ、大丈夫だ。そういう人のためにこっちでもおにぎり用意してるから、あっちでもらって来いよ」「よかったぁ。じゃあ、ちょっと行ってくるね」 わたしはおにぎりを握ってくれているという、流し場へ向かった。焼く前の野菜やお肉などの調理もそこで行っているのだとか。「おはようございます。秘書室の矢神ですけど、ここでおにぎりをもらえるって聞いて……、あ」「おはようございます、矢神さん」 そこでせっせとおにぎりを作っていたのは、なんと絢乃会長だった。それを桐島主任もお手伝いしているではないか!「えっ、おにぎりって会長が握られてるんですか? でもどうして」「この会を発案したのはわたしだからね。全部人任せっていうのは何だか申し訳なくて、わたしもできることはさせてもらうことにしたの」「会長は料理がお上手なんだ。僕も会長に胃袋をガッチリ掴まれてるよ」「そうだったんですね……」 会長って名家のお嬢さま育ちなのに、家庭的な女性なんだな。なるほど、主任がこの人に惚れ込んじゃうわけだ。「天は二物を与えず」っていうけれど、この人には二物も三物も与えている。可愛らしくて優しくて、頭もよくてしっかり者で、お料理まで得意なんて羨ましすぎる。「――おにぎり、二個で足りる? 足りなくなったらまた声をかけてね」「はい、ありがとうございます。今日は楽しんで帰ります」 わたしはおにぎり二個をパックに詰めてもらい、いそいそと入江くんと佳菜ちゃんのいるバーベキュー台へ戻っていく。まさか、ここにアイツが来るなんて思いもせずに――。
――それから、わたしは小川先輩の側で順調に秘書の仕事をマスターしていった。 社長秘書の仕事は会長秘書ほどじゃないけれど覚えることがたくさんあって大変だ。でも、早く先輩たちの役に立ちたくて、一生懸命勉強した。 どの会社にもお局(つぼね)さまみたいな人は一人くらいいるものだと思っていたけれど、幸いにも篠沢商事にはそんな人は一人もいないんだと分かった。 困っている部下や後輩がいたら助けるというのがこの会社の社風らしいけれど、この当たり前のことが他の企業ではできていないんだというのが世の中のおかしなところだとわたしは思う。そこはやっぱり、トップである絢乃会長が模範を示されているからだろう。 宮坂くんの連絡先をブロックしたおかげで、わたしのスマホはあれから静かになった。佳菜ちゃんや入江くん、会社の人などからは連絡が来るけれど、一日に何十件、何百件も来るわけじゃないのでそんなに怯える必要もなくなったし。 ただ、この静けさがわたしには何だか不気味に思えて仕方がない。ある日突然、宮坂くんが予告なしにわたしの前に現れそうで……。「いいか、矢神。宮坂がお前の前に現れたら、すぐにオレに電話しろよ。すぐすっ飛んで行ってやるからな」「うん、分かった。ありがと、入江くん」 怖いことは怖いけれど、入江くんがいてくれるから安心できる。だから、わたしは怯えずに過ごすことができた。 * * * * ――そして、バーベキュー親睦会当日の朝がやってきた。「さて、何着て行こう?」 洗顔を終えたわたしは小さなクローゼットの前で首を傾げた。 仕事に行くわけではないのでスーツを着る必要はないし、バーベキューに行くのにオシャレをしても仕方がない。そもそも、わたしはそんなにオシャレな服なんて持っていないし。 というわけで、七分袖のTシャツにデニムのワイドパンツを合わせ、上からパーカーを羽織っていくことにした。足元はスニーカーでもいいけれど、ここは一応女子としての矜(きょう)持(じ)でフラットパンプスを選んだ。 お昼はお腹いっぱい食べたいので、朝食は軽めにして家を出た。もちろん、鍵もしっかりかけて。「――おはよ、入江くん。朝から準備ご苦労さま」「おはよー、入江くん。ははっ、顔もう煤(すす)で真っ黒じゃん」 途中で佳菜ちゃんと合流し、会場である荒川(あらかわ)沿いのバーベキ